アトデ気づくこと、アトデ知ること、アトダシじゃんけんで負けること

大阪に暮らしはじめて、たった五年間で十数人の知り合いや、大切な友人や先輩を亡くした。

中には孤独死の方も何人かおられる。

その度にやるせない、悔しい思いをした。

 

今日親族の方から知らせが届いて、8月31日、夜8時頃、元住職の彼はすでに亡くなっていた。

 

さっき知った。

なんだかわからないが、アトダシじゃんけんで自分だけズルをして、負けたような気分だ。哀しい。

 

実のところ、信仰というのは僕にはまだよくわからない。

子どもの頃の「マンマンチャン、アン」で止まっている。

「オンナムギャーベル、シャナバカムダリ、ハンドマジンバラ、ハヤバリタヤ、ウン」

というのも、子どもの頃おぼえた。「ウン」は「悪魔退散」だと祖母は行っていた。

でも、そのほかの意味は今だ知らない。

ただ、供養という人間の気持ちはわかるし、偲ぶという行為の尊さは痛いほどわかる。

けれども、それ以上の現世利益や救済のための祈る行為となると、年々わからなくなってきた。

現実は僕らが思っているより、もっともっと不条理で、それこそアブストラクト・ナンセンスに思える。その思いは自分が、高校時代より書いてきた稚拙な脚本からずっと今でも変わらない。

それに対して、「ああすれば、ちゃんとこうなります。ほら理解できるでしょう」という構造の仕組みづくりと説明、そして理由付けや裏付けに、日々取り組み挑戦し続けることが、生きることと同義のようになっている。わからないことということを、そのままわからないまま味わえばよいということが我慢しきれず、ヒトに恐怖心を与えることが多いからだ。ヒトはどうしても目前の対処療法に眼を向け、とりいれてしまうし、そうしなければ生きていけない。

 

それのさいたるもののひとつが、死だろう。

だから哀しい。

死者に直接効くクスリはもうない。あるとすれば偲ぶ周りのヒトの心の中だろう。

あとは日にちクスリだろうか。

 

大阪へきて、友だちになってくれて本当にありがとう。

できることなら、いつまでも一緒にバカ話がしていたかった。

お互い、年を重ねて。

 

BGM 「遠い約束」 大澤誉志幸

BGM 「ガラス越しに消えた夏」 大澤誉志幸

BGM 「そして僕は途方に暮れる」 村上ゆき

BGM 「花咲く旅路」 村上ゆき