ペルソナ

久しぶりに、本棚から、『顔の現象学 見られることの権利』鷲田清一・著 講談社学術文庫 1998 をひっぱりだして、斜め読みしている。20代のとき、アフォーダンスとかペルソナとかやたらと興味があって、手当たり次第に乱読したのだのけれども、ほとんど内容を忘れている。おかげで、今生きている。

 

冒頭の本は、ほんとうに哀しいくらい引用の羅列なのだけれども、p191 L8 に「さて、写真を撮られるという経験は、自他のそういう共謀関係を他者によって一方的に断ち切られるという出来事にほかならない。カメラのレンズが、まなざしの交換を禁じるのだ」とあるが、いつもいつもそうだろうか。

 

僕の学部の卒業制作のタイトルは「まなざしの向こうがわ みるということはみられるということ みかえすということはみかえされるということ」だった。この作品のおかげで芝居ばかりして、写真学科で落ちこぼれだった僕は、大学院に進めたのだけれども、実際の撮影行為の中で、そのようなスタンスもとらなかったし、実感もなかった。撮られた相手もそういった感慨はもたなかったように思う。カメラが介在することによってまなざしの交換も生まれることもあるわけで、荒木さんと陽子さんのような関係もあるし。

 

ポール・ストランドの初期の作品ならそういうこともあるかもしれない。ああ、でも、うろ覚えの記憶でそういうことを書くのはやめよう。

 

ただ、ヒトが写真に撮られるということは、剥き出しに常にさらされるわけではないと思う。

役者じゃなくても、みんなその日その時の自分を演じているのだから。別にSnowでみんな同じ顔にならなくても、充分に魅力的なのに。あれはガングロと同じかなあ。

 

難しいなあ、プリクラから自撮りと化粧と肖像権かあ。

セルフ・ポートレイトって言葉は市民権をずっともたないのね。

写真表現って、ほんとにいつまでたっても絵画のように鑑賞してもらえないうちに技術と規制だけ進化するのね。写真家の作品を知って、鑑賞してるのはほとんど写真家か研究者ばっかりやん。公共機関と法人とメーカーギャラリーだけ生き残るのか。悔しいなあ。

そりゃいいすぎか。そうでもないのかな。そんなことよりも世の中はイソイデルかもしれないな。もう一回現状を謙虚に勉強しよう。無知の知

 

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