小春日和から 冬 春先小紅。

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若者はすぐ調子にのる。そして、それが永遠に続くと勘違いする。

年を経て、慶事があっても、「うん」と、冷静に構えるように変化するのが、年輪と器の深さだと思う。

裏切りとショウがないこと、たくさんたくさん味わってきた方は、立場に関わらず。そう簡単には腰は浮かない。

 

でも、どちらも信じたことを悔いにはしない。

若者はダラダラせず、キリカエが早いし、苦労してきた老年は、腹が据わっている。

 

神仏ではなくて、世俗のさまざまな生きてるニンゲンや新製品や、壊れてしまったモノを信じて生きていきたい。

信仰のように、一方通行ではないから。

対向車線から何かが来る期待と恐れ。

裏切りや哀しみも明日の糧になる。

 

そんな生々しい現実の中で、身をおいていたい。

フェンスに囲まれ、向こう側の草木の哀しみ。

刈りとられ伐採される、不自由な生きざま。

 

それでも、それでも、生えた場所がどこであろうと、花を咲かせる。

 

ビニルハウスから、花屋へ運ばれて、花瓶に生けられるのとは、前提がそもそも違う。

 

野だからこそ、ある美しさとハカナサ。

 

華道も、スタジオもいいけれど、

僕は、野に憧れる。