あまりにも言葉が便利すぎて、伝わらないことはどこへ消えていくのか

 

18日のその日タンクで、神仏への信仰は、一方通行と書きましたが、

 今日、大切な人と話していて、決して一方通行ではなく「祈り」という行為があることに、あらためて気づかされました。「祭事」というのもありますしね。

 一方通行なのは、僕だけかも知れません。以前、最初に行った時のパリの教会内で、僕は茫然と立ち尽くしていただけだったのですが、突然、隣の何というのでしょう、膝立ちで祈れるように、椅子の後ろがなっていて、そこに女性が、突然飛び込んで来て、一心不乱に祈りを捧げていたのを思い出しました。

 

 

 

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祈り、拝む、

 親族に神さんの憑依される方がいて、中学時代、僕は自転車に乗っていて横から自動車に追突されたのだけれど、自転車はぶっ潰れたけど、ともかく僕は無傷だった。そのまま登校した。運転手は「サドルから飛び上がって、宙返りして死んだと思った」と行っていたけど。

 神さんの憑依される方、かなり老女だったが、かくしゃくとしていて、憑依すると、男の声になって「若宮八幡宮の某じゃ、父親が1年間神主をつとめあげたから、わしが助けた」と叫びだした。憑依が終わると、老女は、「何ていうてはった?」と憑依している時の記憶はいっさいないのだった。大学受験の時も、「3つ受けて1つ受かる」と僕には内緒で、父親は聞きに行っていて、僕は願書は4つ出したが、3つしか自分の判断で受けなかったので、後で聞いたのだが、結局老女のいうとおりになった。

 

実家は天台宗だが、僕は無宗教に近い、けれどヒトとヒトの間に、言葉じゃない通じることはあるんだろうなと思う。けれども双方向になるのには、強い信頼が必要だろうなと思う。

 

新月が終わった、また月明りがみえる。