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ちゃんと熟する前に、プランターの玉蜀黍は刈りとられていた。

じゃあ、最初からもっと深くて大きなプランターに植えるか、ちゃんと土壌を用意して、ほしかった。

 

こういうことはまま、あって、

器からハミダスと排除されるか、落伍者の烙印を押される。

けれどその器を用意したのは、そっちの側の人間で、そっちの側の勝手な「こんなもんだろう」「おさまるだろう」「いうことをきくだろう」という都合や憶測は何のエビデンスもない。

どんなニンゲンも多かれ少なかれ、ハミダスに、決まっている。イキモノだから。

僕は、偶然両親が教師だった。育ててくれた親には悪いが、書くと。

今後も改訂し続けるかどうかしらないが、『学習指導要領』というしろものは本当に有害図書だと思っている。「学習障害」という言葉もある、害って何だ。本人が一番苦しんでいるのに。

例が古くて、恐縮だけど、金八先生シリーズなんて教師は、現場にはほぼ存在しないと思われるし、いたらいたである側面、迷惑だ。ヤンキー先生って方、一時期いたっけ、議員さんにならはったのかな、どうでもいいけど。あの方はハミダシたニンゲンの気持ちを理解したと、自分では思っているかもしれないけど、ハミダシかたなんて、百人百様だからね。パターン化された一部のハミダシたニンゲンを理解して、僕はあの子たちの気持ちがわかる、なんてタダの傲慢か自己欺瞞でしかないと僕は思う。進路指導なんて、よく考えたらなんて恐ろしい時間だろう。僕は中学から社会に出ても、すべての進路指導に反抗してきた。自分で決めたことは、自分で失敗して、苦しくとも、自分で受けとめるしかない。居酒屋で愚痴って、誰かのせいにはしたくない。そんな時間は無駄だと思うからだ。だから、コネや縁故採用を受けたことがほとんどない。但しそれは僕自身の考えであって、コネや縁故採用でも、立派な業績を遺した方もいるとは思う。

 

教育機関に関わるって、教えるとか、啓蒙するとかって、本当に恐ろしいことだよ。自覚を心底もってほしい。命がけで責任とるつもりでとりくまないと。それは初等教育でも、義務教育でも、最高学府でも同じだ。あなた自身は数ヶ月から数年で、教わる側のニンゲンのことはもう済んだ、無事卒業したとか、残念ながら、中退したとか、過去のできごとのように、思っているかもしれないけど、教員側は軽口云ったつもりだとしても、たったヒトコトで教わる側の生きざまを左右することもあるのだから。そしてどんな結果だとしでも、教員側は安定した対価を得ている。中退者を出したからといって、給与が減るわけではない。

 

僕自身は大学院時代、いくつかの教育機関の、時間講師や非常勤講師をしたが、まず自分自身が、教わる側より先に、アル中になって、ハミダシ、ドロップアウトして自己都合で退職して、今となっては結果的に、本当に良かったと思っている。そんな数年間教育機関にたずさわっただけでも、30年近くたった今でも、教わる側の一人の顔でも思い出すと、あの子に、あの時、あの声かけや対応や評価でよかったのかなあと、後悔する時がある。

 

教育がおしなべく問題があるとは、思っていない。新しい知識を得よう、ときっかけをあたえられる場としての可能性は教育機関が、多くを担っている。一日の大半を若者は教育機関の中で過ごす。

 

けれど講師、参加する側がともに刺激を受け、ともに新しい知識を得て、ともに成長するworkshopが現状では一番いいと思う。今、今日明日の教育現場を知らないので、偉そうには云える立場ではないけれど、器の大きさは本当に考慮してほしい。ああ、器が小さかった、しかたない、成熟する前に刈り取って、捨ててしまうのは植物だから確かに法にはふれない。でも同じ生きものだ。

 

これは書いていいことかどうかわからないが、そんな昔でもない時代、教員の懇親会の席で、ある教頭が新卒の教員に向かって「お前、同和やのによく教師になれたな」と云った現実がある。その後、その教頭は、教育機関から姿を消した。その教頭も、教育学部を出て、「教育とは何か」を少なくとも学んで、ましてや教頭にまでなった方だ。

僕自身の気持ちとしては、姿を消されるのは当然だし、僕がもし裁判官なら、その一言だけで、終身刑にもあたいすると判断する。

 

そんな教頭に学んだ子どもたちがかわいそうだ。遠く離れて暮らす、僕の息子は高1だ。可能ならば自分が成熟できる可能性のある器の教育機関に通ってほしいし、万が一そんな教員に出会うくらいなら、さっさと学校なんて中退してほしい。幸いにも、勉強はスマホ一台でもできる時代になった。

 

教員は一時期しか、子どもの責任をもたないが、親は生涯、何かしらの形で背負わなければならない。けれど一時期でも責任は同じだ。教育機関におられる方は、その自覚をもってほしい。「ああ、だめだ、僕の用意した器では、僕の育て方では、喰える玉蜀黍にはならなかった」と一度でも体験したら、さっさと教育機関を離れて、別の職業に就くべきだ、と僕は思う。