20210815 The day when my grandfather died in the war 76 years ago and was promoted to the second rank

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 先月、ある民間団体のケア資格を、取得しました。その講座の最終課題レポートの一部に、「私の人生観」を書け、という設問がありました。以下少し改訂したものを、転載させて頂きます。

 

 川戸正嗣の人生観 (2021年8月15日現在)

 

 「被差別部落の数多い地域で、生まれ育ち、幼稚園にあがるまでは被差別部落で育ってきました。差別のせいで進学、就職、婚姻をあきらめた幼なじみの友人が何人もおります。両親とも高校教諭で、父親は退職するまで同和教育を続けました。ですから差別は昔から大嫌いです。ただし本心をいえば、同和教育がおこなわれるということに対して、ある種の偏っているかもしれない知識を、教育機関でおこなうことに対して、ある種の疑問を今でも、もっています。

 人間は、わからないまま、という状態が不安なので、自分に対して、他者に対して、ラベルをはります。それで安心します。それは差別ではなく区別、分類ですが、わからないままいる、毎朝、昨日とは違い、成長、もしくな多からず少なからず、変化した相手に逢っている、ということの大切さを忘れがちです。一度何らかのラベルをはったその他者が、自分で思いこみでつけた、ラベルのままいてくれるほうが、ある側面、楽で安心できるからです。自分自身にたいしてもそうです。先日の紫陽花が舞い散った件についての、その日タンクにも書きましたが、およそ生きものの中で、「私のこれこそが、「自分らしさ」なんですよ」、というある種の自分勝手な傲慢を、まるで生きかたの指針のようにかかげ、他者におしつけようとしているのはヒトだけではないでしょうか。ただし、アーティストの表現活動や営為は、べつです。生まれもった百人百様の、個別性というものを、ヒトは言語を習得する以前から、もっています。

 そして植物と同じように、ヒトは、生まれる国、人種や、地域や、場所や、環境を、生前から自分の意志で、選択することは、できません。

 

 ヒトは二立歩行のため、哺乳類の中でも少ない部類に入る、動物としては母親からは、全員早産の部類に入ります。多くの哺乳類は、母体内で、成長するため、産後直ちに、自立できます。ヒトはこの世に生まれたあとも、ある一定期間、家族や、保育園などの施設のケアがなければ、自立も二立歩行もできません。

 別に医療機関につながらなくとも、発達障がい、知的障がい、精神障がいの方、年金だけでは生活できないご高齢の方が、症状や悩みに、苦しみながら、けれども働き、生活しているヒトたちが、たくさんいます。

 精神科や心療内科につながって、初めて病名をつけてもらって、安心する方が少なからずいます。そして自分が楽で傷つかないほうへ、「病気だからしかたがない」、ということで、自分の可能性を、社会的資産ということをあきらめていきます。路上の煙草の吸殻を毎日拾うだけでも、社会的資産としての役割を果たしています。僕自身現在、収入を得て、最低限の生活こそはしてはいますが、精神疾患の当事者です。ですから昨年から有志で、まだまだ稚拙ながらも、ピアサポーター研究会を立ち上げ、行動しています。自己憐憫に浸らないで、同じ疾病同士だけの狭い世界で交流し、過去の思い出を語りあい、症状を慰めあうだけの生き方ではなくて、世間へ出ていって、さまざまな人間とふれあって、喜怒哀楽をわかちあう。精神障がい者肢体不自由者、知的障がい者が、決して他者を安易にラベルづけするのではなく、「わからないことはわからないまま」の孤独と苦しみに耐えて、一人でも多く、傷つきながらも少しづつでも笑える生き方をしていってほしい、それが僕の今の願いとともに、日々の他者への行動です。

 どの地域でどんな環境でヒトが生まれるか、先天的でも後天的でも、どんな障がいや疾患をもつか、本人に選択肢があるわけではありません。選択肢のないものに、自分が自分自身に与える差別も、他者からの差別も、僕は生理的な嫌悪感を生涯もつと思います。

 厳密にいえば、身体的疾患は別として、重度、軽度の程度の差こそあれ、精神における健常者なんて、世界中どこにもいないと考えます」

 

 

 

 8月15日なので、書くと、戦時中、もっとも国民を高揚させたのは朝日新聞社です。僕は朝日新聞を生涯とりません。僕の祖父は大工でした。自分の右手の人差し指を、祖母に突き出して、「これ斬ったら戦争にいかんですむにゃけどなあ」と云ったそうです。けれども大工が右手人差し指を失うわけにはいきません。陸軍二等兵として、二条駅から、出征しました。ビルマで戦死しました。遺骨も何も残っていません。紙切れ一枚だけが、送られてきました。ただの消息不明かもしれません。突撃命令を拒んだため、同じ日本人に射殺されたのかもしれません。それはもう誰にもわかりません。

 出征前に切った髪の毛と爪と、三通ほどの葉書が遺されています。天皇陛下のことも、祖国のことも、まったくその文面にはありません。ただただ戦地の様子と、俳句のようなものと、何よりたくさん、家族への想いが書かれていました。

 

僕は、正午、黙とうはしませんでした。僕は偶然、視覚障がいを持っていないので、心のこもってない、ポーズだけで眼を閉じるよりも、僕も一人の戦没者遺族として、しっかりと見るべきだと思うからです。