alive

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なぜか、すれちがいざま、お互い、頭をさげた。

 

活きているということ。

 

秋の夕暮れ。

 

 

 

反・春秋の筆法

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春秋の筆法なんて、いらないよ。孔子さま。

乱丁、落丁のすきまに、僕らは自分だけのやさしい居場所をみつける。

 

そのすきまから、天高い秋空をみあげるんや、

あこがれや、ゆめや、きぼうを。

きえることない、かすかなかなしみとともに。

 

 

 

Last day of august

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僕の4畳半、一人暮らしの部屋に6種類8灯ある、

撮影ライティングのためのアカリのひとつ。

お盆休み明けから、在宅勤務になり、と同時に体調を崩し、業務はこなせているが、しんどくて、外には出れなかった。

 

このアカリは、可視化できるイキモノとしては、ただ、僕自身と、唯一同居してているハエトリグモ一匹だけを照らしている。

 

森田正馬の「不安常住」という言葉がある。僕はものすごく共感する。不安は安易に解消するべきではないと思う。不安を安易に解消すると、また別の不安をさがしてきて、またそれを安易に解消するという、いたちごっこのような生き方になるような気がする。

 

不安と共生してこそ、深い喜怒哀楽の日々を活きられる気がする。

僕だけだろうか。

 

Laugh at the end

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百人百様の生きざまをみとめあい、共棲して、

いろんなことがあっても、みんなで対等に、笑いあえればいいんだと思う。

 

それが理想論とは、僕は思わない。あきらめさえしなければ。

 

 

 

 

If it's your choice, you can be anywhere

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居場所を選択できる大切さ。

 

選択できなければ、そして、何か悩みや苦しみを、抱え込んで、

自死までとはいかなくとも、自分自身にとって、深刻であれば、

今いる居場所の中を、変化させればいいと思う。

決して暴力はつかわず、問題提起して、相談し、戦って。

勝てば、居場所の中は、たとえ少しでも変化するし、

負ければ、そこから堂々と胸をはって、出ていける。

 

例えば、労働による対価を得ているならば、

多かれ、少なかれ、悩み、苦しみはあるとは思う。

でも、その苦しみの臨界点をこえてまで、

その職務にこだわる必要はないという気がする。

「生活水準を今より落としたくない」「せっかく現代では、残り少なくなった終身雇用の職場だから」「家族のためだ」「自分の子どもたちに高等教育を受けさせたい」「老後の安心のために」

ほか、さまざまな気持ちや、理由があるのは、僕自身も、月曜日から土曜日まで働いているし、一緒に暮らすことは小2から不可能になったけど、高校1年生の息子がいるから、もちろんわかる。

 

けれど、家族をもつ人ならば、家族は日々、あなたの活き活きとした表情、言動が何よりも見たいはずだ。

単身者なら、友人も日々、同様にあなたの活き活きとした姿が見たいはずだと思う。

労働の愚痴や悩みや苦しみを聴くためだけに、家族や友人はいるわけではない。そういうことを、同僚や、家族や、友人にぶつけないメンタルの強さを持っている方はいい。

その職務そのものに、生きがいを感じている方は、所得が高い低い、関係なく、どんな悩みや苦しみも自分の成長の糧になる、と感じておられる方が多い。そしていつもいつもではないにしろ、結果的に活き活きとしている。

 

 たしかに、高所得者層の家族は、子どもに義務教育の他に、高等教育、各種の習い事や、学習塾、または、さまざまなサービスを与えることができる。

 低所得者層の家族が、子どもに与えられる選択肢やサービスは、限られてくる可能性はたしかにある。けれど逆に子どもが、ハングリー精神というものの、「気づき」を得る場合もある。

 結果的に、高所得層の親が「よかれ」と思って与えたサービスが、子どもの本来、自由な、生きかたを限定させてしまう可能性がある。子ども自身が、意志を持てば、たとえ親が転職して生活水準が下がっても、奨学金制度や、さまざまな方法で、低所得層でも、高等教育を受けることができる。

そして、親自身は、所得が下がったとしても、活き活きとした姿を、家族みんなにみせることができる。

単身者の場合も友人や交流している人たちに、同様の姿をみせることができる。

 

僕は、田中角栄のおこなった政策や、政治理念は知らないが、本人は小学校しかでていない。

卑近な例でいうと、僕の祖母は、尋常小学校すら、卒業したかどうかさだかでない。

野良仕事や、数多い兄弟の世話で、学校どころではなかったからだ。でも戦後、シングルマザーとして、落花生の行商と、野良仕事とで、もちろん、遺族年金もあっただろうけど、家を買い、僕の父親を高校教師として、育てあげた。

 

誰に聞いたか忘れたけれど、桑田真澄は高校時代、立派なトレーニング設備で個人練習をしていた。かたや清原和博は、河川敷で素振りをして、個人練習に励んだ。結果として、同じプロ野球選手になった。

 

「自分の居場所」そのものについて、思いをはせる時間を持ってほしい。

それは、何処でもいいのだ。

 

そんな気がする。あるがまま、で、いれる居場所を手にいれてほしい。

 

 

BGM 笹川美和 『家族の風景』