Disability is also individuality

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先天的であろうと、後天的であろうと、身体であろうと、精神であろうと、脳機能であろうと、あらゆる「障がい」とされるものは、たんなる「個性」だ。 ー川戸

 

 

 

川戸正嗣 1971年10月10日生 

 アルコール・薬物依存症、うつ病高次脳機能障害(記憶、遂行障害)、外傷性てんかん、水中毒、他

 精神障がい者2級 (2021年11月27日現在)

 

 差別や偏見が、誰の心の中にもあり、決して無くならないのは、僕だって子どもの頃から実感している。そして僕は「人権」という言葉が嫌いだ。天皇陛下ですら、憲法で保障されているはずの、職業選択の自由すらない。神事と、諸外国に対する営業および接待職務で激務だ。

 

 僕は20代の院生の頃、一時期、歴博の共同利用研究生だったが、何一つ成果をあげることはできなかった。書庫で文献ばかり漁っていたからだ。それは母校でも同じで、片っぱしから国内外の写真集や写真雑誌、民俗学、とくに母校では民俗芸能の研究書を漁り、それは演劇学科から企画展に関する、依頼を受けてだけれども、全国の村歌舞伎のmapをイラレで創ったりしていた。またデザイン専攻や写真芸術学専攻の留学生の方の、博士論文の構成や推敲もさんざんやった。それらの方々には微力ながらも何かのお役にたてたかもしれないし、経験にはなったが、僕自身には何の成果にはならなかった。

 修士論文の頃のように、現場へ行って一次資料に向きあわなかったからだ。フィールドワークや、ご本人にインタビューをくりかえしすれば、おのずから自分も「傍観者」ではなく、少なからず「当事者」となる。すると借りものの言葉ではなく、「自身の言葉」が出てくる。一方通行の頭でっかちではなくて、いわゆる「交流」がうまれる。

 そののち、民俗学はfolkloreからvernacularになった。

 

僕が伝えたいのは、個人に対する「障がい」または「出自」などへの、平等とか対等とか、人権を守ろうとか、差別や偏見を無くそうとか、社会的弱者だから特別な措置をとってくれとか、(僕個人はハートマークのキーホルダーが大嫌いだ)

 そんな「絵に描いた餅」「幻想」「妄想」のようなことではなくて、

 他者も少しでもいいから、「見て見ぬふり」をしないでほしい、「傍観者」でなくて「当事者」になってほしい、「交流」してほしい、「多様性」を根づかせたい、という願いです。

 

だから、ただの「個性」なんだって。

 

 

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*補足 

 僕は20年前に医療につながったから、「病名」がつき、「病名」がついてはじめて「投薬」他の治療がなされるわけで、別に医療につながらなければ、何もないわけです。それではもう現在、死んでいる可能性もありますが。

 以前にも書きましたが、さまざまな症状に苦しみながらも、医療につながることなく、働き、生活をおくっておられる方もたくさんいるはずです。また医療側も、あくまでヒトですから、問診のみの診察で、臨床検査のエビデンスがない、もしくは臨床検査では測れない側面がある場合、当然誤診もあるわけです。さまざまな症状がありますが、強い希死念慮と、他者に何らかの迷惑をかける問題行動が症状として現れたときに、とくに迅速なサポートが必要だと僕は思います。「いのちの電話」などに相談する前に、電車に飛び込んだり、首を吊る方のほうが現実には多い気がします。また暴力、暴言行為はもちろん、借金やゆすり、たかりなどさまざまなことが疾患の症状なのか、そもそもの人間性なのか、境界の見極めの判断は本当に難しいと思います。「病気だから、〇〇できない」ではなくて、「○○に挑戦しないから、症状があらわれる」場合もあります。医療機関や、担当主治医との相性もあります。医療機関が変われば、診断名も、治療も変わります。

 そういった意味では「個性」などと、ひとことでかたずけていいのかという疑問点も、ふまえた上で、あえて書かせて頂きました。

 

 このblogで「障がい」や「疾患」についてふれるのは、今回で最後にしようと決めています。

 僕自身、もうすでに「今」と「これから」に進みつつあるからです。