絞り開放から二絞り半、シャッタースピードは遅くても15分の1

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さまざまなジャンルの写真家がいて、演出したり、スタジオ撮りをしたり、スナップをしたり、自撮りしたりしているが、写真家は基本的には撮影した写真の物量だとぼくは思う。

 

むろん、世紀の瞬間をとらえることには意味がある。

けれども、だいたい、仕事のあいまに一日100カットくらい撮り続けてると、

まず、ヒトに見せたいものが見えてくる。

すべての写真家がそうではないが、

数多くの写真家は自分では何も作らず、見たものをかすめとっていく泥棒のようなものだ。

 

だから、と云っては何だけど、写真を研究、評論している方も写真家の要素があるし、写真家自身にも写真評論、研究家の要素があると思う。この現象は絵画や他の美術を研究されている方、現代美術を研究されている方にはわりとすくない。

そのくらい写真は大衆のものになりえた。

 

自己卑下じゃないが、僕みたいな凡人は、物量で勝負するしかない。

どれだけヒトが見過ごしている日常を盗み取っていけるか、

ヒトがあたりまえと思って見逃している風景を盗み取っていけるか、

不法侵入しながら、構図と絞りだけを考えて、ファインダーを覗いている。

 

動体視力という言葉があるように、視線はどんどん移動していく。

それを1秒以下の世界に再現するのが、僕の写真の撮り方だ。

長時間露光はしない。それは映像作家にまかせればいい。

 

よく写真の撮り方、というような書籍があるが、

眼はとおすが、本音をいつも、クソだと思っている。

絵葉書はお土産屋に安価で売っている。

一枚の傑作を撮ろうとはまったく思わない。

歴史的瞬間を撮ろうとも、まったく思わない。

ただ、そこにある、無名の人たちの痕跡だけを、

僕は探して、ただ、歩くだけだ。