あれはいい帽子でした。

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いざとなれば僕も、と気持ちだけ膨らませて、ただだらだら腰をすえていても、

本当に、いざとなったとき、

立てない、役に立たない。

 

気づくヒトは、いざとなるまえから、すでに立って行動している。

動かないヒトからは、あいつは腰が軽いだの、あいつは早とちりばかりだの、云われても

気にせず、ただもくもくと、黙って先に腰を上げ、歩きはじめている。

その早とちりと揶揄されたヒトのさしのべた手が、最初の誰かを救う。

その手が汲んだ水が、誰かの喉を潤す。

最初に、「きかせて」といってくれたヒトに、誰かは胸の内の奥の奥の苦しみをあえぎあえぎ、伝えようとする。

今の今も、どこかで誰かが誰かを傷つけている。直接、または間接的に。

今の今も、どこかで誰かが誰かの可能性を握りつぶしている。

幼い時、僕にはじめて泣きながら心情を吐露してくれたのは被差別部落とよばれる地域の子だった。のちに僕は彼に最初に手をさしのべられ、救われた。彼の勇気と、そのうけた恩と、嬉しさを、僕は一生忘れない。

 

一般、健常、普通、中流なんて、この世には、良くも悪くも、存在しない。

 

だから、なにも、おもねることはない。

 

ターミナルケアのヘルパーをやっていたとき、

ある老人が、介助中に「おまん、ええやつやな」と云ってくれた。

15分後、彼に僕は、「おまん、誰や?」と初めて会った顔をされた。

 

15分前、僕はいい奴だったのだろうか。