Compassionate distance

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夕方、電動車椅子のおじさんが、エレベーターの中、

首からカメラをさげている僕を見て、笑顔で話しかけてくれた。

「いい写真が撮れましたか」

「わからないです」と、笑顔で答えた。

 

数分間のうれしいふれあいだった。

 

もう削除したが、前回コロナについて、書いたのは、マスメディアがコロナの感染者数や死者ばかり報道するのにうんざりしているからだ。

別にコロナじゃなくてもさまざまなことで、多くのヒトが毎日亡くなっている。

そしてのこされた家族や友人は悲しんでいる。

中には誰にも悲しんでさえもらえない、身寄りのない孤独死のヒトがいる。

 

電動車椅子のおじさんと僕は狭いエレベーターの中、いわゆるソーシャルディスタンスではなかった。

本当に対等の「思いやりの距離」だったと思う。

 

あのオリンピックの開会式の演出が、精一杯の「お・も・て・な・し」だとしたら、

日本国内で出版されている、すべての国語辞典の「おもてなし」の項を

書き直さなければ、ならない。

 

僕は観ながら、途中で寝てしまった。